妊娠したいのになかなか授からない、こんなときは産婦人科で不妊の検査を受けます。不妊の検査内容としては、まず問診からはじまります。初潮の年齢、生理周期、妊娠や中絶、流産の有無などを報告します。問診の後は、膣の状態を触診して調べたり、エコーを使って子宮の様子を検査します。また、不妊の検査は女性だけではなく、パートナーの男性も検査の対象です。精液の状態などを調べます。
この間、お昼頃に何となくテレビを見ていたんですが、その時に不妊の病院に通い続ける夫婦の番組をしていました。その夫婦は、子供がほしかったものの、3回も続けて流産をしてしまい、不妊の病院に通い続け、やっと赤ちゃんを授かることができました。私はよかったなあと思ったし、赤ちゃんを産むって大変なことなんだなあと思いました。
「神(GOD)は死んだ」と、19世紀すえの西洋の哲学者は喝破した。だが日本の「カミ」は、江戸期の国学者、本居宣長が言うように「すぐれてあやしきもの」を指す。そんな「カミ」たちをもとめる旅をはじめた。(文 福嶋敏雄)
したたり落ちるような深いミドリの中から、「しん」とした神気のようなものがただよってきた。
小暗い参道の両側には、スギの巨木がたちならんでいる。竹の輪をぐるぐると巻かれた老樹もあった。そのスギ木立の向こう側は、深い森が山にむかってせりあがっていた。
平日の午後、数人の参拝者とすれちがっただけだった。参道入り口から100メートルほども歩いただろうか。突然、天から、陽が落ちてきたような明るい一画に出た。
ふたつの社殿が、ならんで建っていた。そのまえには、白い玉石が鳥居に向かって川のように延びていた。まばゆさのあまり、一瞬、目をほそめたほどだ。
どちらの社殿も、東西の両端に千木(ちぎ)がそびえ、屋根には樫木(かつおぎ)(勝男木)が等間隔にならんでいる。数えたら、6本ずつあった。
いわゆる神明造りの社殿である。それにしても小さく、ひなびていた。屋根の檜皮が、はげ落ちているような個所もあった。
チンピラ中学生だったころ、ときたま通った中学校に隣接した登呂遺跡(静岡市)の校倉造りの倉庫のようなイメージであった。登呂からつながる弥生期の、古いかたちをとどめた造りなのであろう。
ふたつの社殿が建つ東側には、玉砂利を敷きつめた空き地があった。東西には、高さ1メートルほどの小さな祠のような建物がふたつ立っていた。「古殿地」と呼ばれる。20年ごとに、新しい御殿を造営し、遷(うつ)すための敷地である。
いわゆる式年遷宮である。次回は平成26年、伊勢神宮は平成25年だから、その翌年にあたる。
瀧原宮は、伊勢神宮の近くを流れる宮川の支流に沿って、30キロほど南西の奥深い山地にある。
祭神は天照坐大御神御魂(あまてらしますおおみかみのみたま)で、皇大神宮(伊勢の内宮)の別宮(べつぐう)とあった。だが10世紀初頭の法典である『延喜式』には「大神の遙宮(とおのみや)」と記され、神名の記載もない。
古代の天皇が祖先神と仰いだ天照大神(以下、アマテラス)の最初の鎮座地がこの神社で、その後、伊勢に遷されたという説がある。いわゆる「元伊勢説」である。
『日本書紀』垂仁天皇25年3月に次のような条がある。倭姫命(やまとひめのみこと)が、アマテラスの鎮座するところをもとめて、大和国から近江、美濃国をまわって、伊勢国にいたったところ、アマテラスはこうおっしゃった。
「是(こ)の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ」
「傍国」とは大和国の「そばの国」、「可怜し」は「うつくしい」という意味である。命を受けた倭姫命が、五十鈴川のほとりに造ったのが伊勢の内宮とされる。ここには、瀧原宮についての記載はない。
だが書紀の暦法によれば、垂仁天皇25年は、西暦に換算すると紀元前5年である。教科書的な知識によれば、弥生期の半ばに該当する。もちろんヤマト政権も、まだ誕生していない。
『古事記』を含めた記紀が編纂されたのは、天武、持統期を中心とした7世紀末から8世紀にかけてである。ヤマト王権が国家として自立しようとする時期と重なり、そのためのプロパガンダの書という側面もあった。
瀧原宮の「元伊勢説」にこだわりたいのは、『伊勢国風土記』につぎのようなくだりがあるからだ。
「倭姫命、船に乗りて度会の上河(かみつかわ)に上りまして、滝原の神の宮を定めたまひき」
もうひとつ、あげられるのは、正史である『続日本紀』の文武天皇2(698)年の記載である。
「十二月二十九日、多気(たけの)大神宮を度会郡に遷す」
この多気大神宮が瀧原宮であり、遷されたところが現在の内宮と解することができる。そう指摘する古代史家もいる。
はたして内宮は、瀧原宮から遷されたのだろうか。ヒントくらいはあるかもしれないと、お伊勢さんに足をのばした。
「内宮」まえには、広大な駐車場がひろがり、「赤福」や「伊勢うどん」などを売る店が、ぎっしりと並んでいる。旗を持ったガイドさんを先頭に、宇治橋をわたり、長い列が続々と正殿へと向かっている。
もうなんども、訪れているから、正殿のすがたを仰ぐことはできないことは知っていた。拝殿や板塀などにさえぎられているためだ。背を伸ばしても、千木と樫木の一部が見えるくらいである。もちろん、隣接する遷宮の地も見ることはできない。
正殿まで行くのをやめ、五十鈴川の御手洗(みたらし)場で休憩した。短パン姿のギャルが、水辺で手や足を浸している参拝客たちを見て、「あすこ、足湯なの?」とスットンキョーな声を出していた。
−−瀧原宮の参道のわきにも、歩いて渡れるほどの、ちいさな川が流れていた。
五十鈴川の御手洗場と同じように、水辺まで平らな石が敷きつめられていた。
司馬遼太郎は晩年のエッセーで、瀧原宮について「伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている」と記し、ふしぎな宮との感想をもらしている。「古神道というのは、真水(まみず)のようにすっきりとして平明である」とも書いている。
五十鈴川にくらべると、瀧原宮の小川のほうが「真水」のように平明であったことはたしかである。
【メモ】
瀧原宮の所在地は、三重県度会郡大紀町滝原。「瀧原」の名は宮川の支流、大内川に大小の滝が多くあることから名づけられたという。近鉄大阪難波駅から松阪駅で下車し、JR線に乗りかえ、滝原駅下車。瀧原宮までは徒歩で約30分。伊勢神宮(内宮)へは大阪難波駅から宇治山田駅下車、バスで約15分。じわじわ人気!温泉旅行詳しくはこちら
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